私が一番最初に「お金を借りた」のは今から30年ほど前、1980年から1990年代になろうとしていた頃のことです。
*目次
自己破産を経験している私の借金遍歴
記憶が曖昧なのは、時間が経っているからだと思います。
それ以来自己破産中のブラックリストの期間以外20年以上も多重債務に悩まされています。
当時の状況で確かな記憶は、パソコン(スマホ)なんて便利なものがない時代でしたので、職場にあった週刊誌の広告欄から当時はサラ金と呼ばれていた武富士から借り入れたこと。
自動無人機が登場してCMに芸能人が登場するような時代になるのは、それから6~7年も後のことで、当時は「¥ショップ(円ショップ)」という、ネーミングからして金貸し丸出しの店舗に行って申込書に記入した記憶があります。
- 当時の武富士の店舗とCM
いま思えば、こんな妙な迫力の昭和の香り満載のCMを観てお金を借りようと思うこと自体が恐ろしくも感じるのだが、この当時はサラ金の中でも知名度が高かったので武富士を選んだんだと思います。
これでもマシになったほうで、これ以前は「サラ金=サラリーマン金融」というイメージのかけらもない、ただの街金融しかなかった時代だと思います。
貸し出し利息も上限金利がパーセントではなく「元金の1割や3分」といった単位だったと言えばイメージしやすいでしょうか。
その頃の武富士やらレイクなどの消費者金融からの借金を、金利ジャンプし続けて未だに返済している人はいないと思うけど(いたら或る意味、感心します)
借金歴の長い(古い)人には、懐かしいCMだなぐらいは思うかもしれません。
この曲よく聴くとイイ曲じゃないかと、時代を超えて多重債務者の琴線に触れてしまった方には原曲をどうぞ。
最初の借金は30万円でした
それはよく覚えています。
まだ20代前半の頃の人生初のサラ金でしたので、もの凄く勇気が必要でした。
店舗に入るまで緊張していたのを覚えているし、それ以前に「こんな俺でも借りれるのか」と、心配でした。
そんな緊張も心配も「120%の取り越し苦労」となり、アッサリと30万円の現金を(当時は大金です)摘まめました。
借りた目的も今となってはハッキリと覚えていないけど、当時は駅前のパチンコ店でスーパーコンビという一発台をよくしていたので、それでお金に詰まったからかもしれないです。
オグリキャップで迎える空前の競馬ブーム直前の頃で、オグリよりスーパークリークのほうが強いと思っていた頃。
乗っていた車はソアラ。
ハイソカーブームが下火になって当時は高級車の部類で300万円以上(48回ローン)でした。
当時は驚いたけど、半年も返済をしたところで融資残高(借入可能額)の枠が拡がり、追加で20万円を引き出し合計50万円の借金残高。
その後まもなく給与明細持参で100万円まで融資枠を拡げて、月々の返済額は3万2000~3000円ぐらいだと記憶してます(グレー金利の時代)
3~4年後には次のサラ金へ。
無人契約機の登場で自己破産したといっても過言ではないほどでした。
借り入れ先の順番は逆かもしれないが、アイフル・アコム。
最初の武富士の借金から4~5年の自転車操業で、消費者金融3社の限度額が上限になり、ノーローンや三和ファイナンスからも借り入れて、最後にレイクで5社300万円ぐらいだったと思います。
独身であれば返済できる金額です。
消費者金融5社から300万円の借り入れで月々の返済額は8万円前後だったと思います。
当時のお給料の3分の1は返済に消えていき、その他に自動車ローンがあったものの、実家暮らしの独身という身分でしたので、毎月手元に3~4万円も残れば暮らしていけました。
実際の暮らしぶりは、手元に残った3~4万円のお金で飲み食いをして、適当に洋服や流行りのシングルCD(車でCDはまだ聴けない時代)を自制なく買っているとお金はすぐになくなりました。
お金がなくなれば消費者金融に出向くという感じで、300万円以上の借金を抱える多重債務者のくせに自覚は0。
もちろん自分が借金地獄だとも思っていなく、債務解消よりは会社や親にバレたらヤバイな程度にしか思っていませんでした。
備えあれば憂いなしです。
特にお金に関しては備え、いくら貯金があっても邪魔ではない。
20年以上経ったいま振り返ると、親戚の伯父が「若いうちはお金を貯めろ」と言っていた意味が分かる。
たぶん私も、あの頃の自分のような若者にアドバイスすることがあれば「お金は大事にしろ」と、間違いなく言うだろう。
基本的に借金返済に苦しんでいる人は真面目だと思います
真面目ゆえに何とか借金問題を解決させようと、悩んだり考えたりするのだと思います。
不真面目な人であれば何も考えずに、借金から夜逃げするでしょうし、今の時代であればコンビニ強盗をした理由が借金のためという報道もよく聞く。
かくいう私も金銭感覚以外は、世間的に真面目に映るはずの人柄で、一文無し借金300万円もありながら恋人ができました。
その恋人が今の嫁になるわけですが、真面目な私は真面目であるがゆえに嫁に借金があることを打ち明けられませんでした。
借金の有無によって交際がダメになる感じはなかったのだが、何故か言えないままとなりました。
やがて結婚を前提にという流れになり、両親公認の上で同棲生活を始めようということになり、引越し代や新しい家具の購入費用など簡単に考えただけで100万円の必要に迫られました。
嫁はそこそこ貯金がありましたので(後に27際で結婚した際には600万円も貯金しておりました)普通に同棲するその日を待っていましたが、私の方はそうはいかず、根が真面目なだけに仕事が終わった後に宅配会社にアルバイトに行き、今でいうダブルワークですが当時の言葉で仕事を掛け持ちして必死で貯蓄に励みました。
もちろんサラ金への返済8万円は一向に減らず、融資残高据え置きのまま。
そして借金を隠したまま結婚
恋は盲目なのか、私が後先を考えずにいたのか、それとも「どうにかなる」と何も考えていなかったのか定かではないが、ささやかな結婚式を挙げることになった。
結婚式代は両家の親が出してくれた覚えがある、お祝儀で新婚旅行にも行った。
その代わり新居のほうは自分たちで賄いなさいとか、そんな感じだったと思う。
さすがに新婚でダブルワークというわけにはいかないので、宅配会社のアルバイトは辞めていたが、新婚旅行の最中ですら消費者金融の返済日はもちろん待ってはくれない。
携帯のない時代なので、返済の督促電話が家の固定電話に通じなければ、勤務先に連絡が入るのは必然だったし、長期休みということになれば実家に電話が入ることは必至。
それだけは避けなければならないと考えた私は、新婚旅行に旅立つ寸前に1ヶ月分の返済を済ませてカード類は嫁に見つからないように隠して、どうにかこうにか新婚旅行に旅立った記憶があります。
そして小遣い制の夫になった私。
あろうことか嫁は、夫のお給料を管理することを妻の仕事と考えていたタイプで、話し合いの末に消費者金融300万円を内緒にしたまま、小遣い制の夫になってしまったのだ。
独身実家暮らしだからこそ返済できていた毎月の8万円は、サラリーマンの夫の小遣いで返済できる金額ではない。
確か1日1200円の計算で1ヶ月に36000円という中途半端なお小遣いを貰っていたと思う。
言うまでもなく消費者金融の返済には足りない。
足りないどころではなく生死に関わるレベルで絶対的に足りない。
それでも真面目な私は、必死に金策に走り地銀でカードローンを作ったり、時には親にも無心をしたりして返済し続けた。
やがてアパートから賃貸マンションに引越し、不動産屋さんから買い取りの打診を受けた際には、嫁に内緒で100万円ぐらいのオーバーローンを組んで消費者金融の返済に充てていた。
自動車も確か140万円ぐらいの中古のシーマを170万円だといって30万円のオーバーローンを組んで返済に充てて凌いでいた。
いま思えば驚異的な借金返済生活だ。
同じような境遇の人がいると思えないぐらい過酷な毎日だった。
ちなみにこの間に子供にも恵まれているので、一見すると幸せな家庭だった。
自己破産の日は交通事故と共に訪れる
幸せな家庭を築く一方で、孤軍奮闘して壮絶な借金返済と金策に明け暮れていた。
子供が幼稚園に入園した際に事件は突然に訪れる。
私が交通事故に遭ってしまったのだ。
両足骨折など全治3週間の重傷で入院することになってしまったのだ。
入院中も身体の痛みよりも心配なのは消費者金融の返済だ。
消費者金融を返済するために借りた新たなカードローンも併せて合計7社、キャッシングだけで400万円を超えているし返済日もバラバラ。
両足を骨折していて返済に行くことができないと、この期に及んでも借金を何とかしようとした自分の真面目さには、20年経った今でこそ笑い話しである。
弁護士への相談
交通事故は過失相殺の比率で揉めたため、加害者と私の双方に保険会社から紹介された弁護士が代理人となった。
弁護士が一通り事故の判例を説明してくれたが、私の頭の中は慰謝料がいくらもらえるかであり、更に肝心なのはその慰謝料が嫁に内緒で私の懐に入るのか?であった。
その慰謝料を借金返済に回そうと考えていたのである。
もちろん嫁にも会社にも親にも内緒であるという前提での相談だ。
弁護士の回答は明快だった。
「これを機会に自己破産してリセットしましょう。」だった。
破産という言葉に人生の終わりを見た気がするが、私は自己破産するとどうなるのか?と入院先のベッドの上で聞き返した。
「借金が0になり、今後一切返済がなくなります。」
返済がなくなる・・・自己破産という響きは悪いが、確かにこの機会にというのは神さまが与えた交通事故なのかもしれないと思った。
それに借金0という魔法の言葉を聞かされては、自己破産という人生の終わりのイメージなど軽く凌駕していた。
自己破産と嫁の落胆
弁護士が交通事故を機にという形で自己破産の手続きに入ったので、嫁の衝撃も多少は緩和されていたとは思うが、マンションにも住めなくなるということはショックだっだろうし、何より自分の夫が分けのわからない借金でまさか破産者になるとは想像もしていなかっただろう。
嫁は「なんでもっと早く言ってくれなかったの!」と怒っていたが、打ち明けたところで返済の肩代わりをしてもらえるわけでもなく、そのつもりもなかった私としては、その気持ちを抑えて、ただ謝った。
夫婦で隠しごとをして済まないという意味で。
退院後、娘には不憫な思いをさせたが幼稚園も転園となり、嫁の実家に私たち家族は身を寄せた。
自己破産の免責が下りたのはそれから半年ほど経ってからだろうか。
弁護士とと共に裁判所に行き、裁判官と簡単に受け答えをして免責が決定した。
もっと早く打ち明けるべきだった。
私の場合は、何度となく借金を打ち明けるチャンスはあった。
嫁との交際時、結婚する時、家を購入する時など。
それでも打ち明けられなかったのは、前述した通り、打ち明けたところで返済を肩代わりしてもらえるわけでもななく、肩代わりさせるつもりもないのであれば、苦しむのは私ひとりで良いという考えがあったからだ。
そのことは自己破産後に嫁にも話した。
ところが嫁は、「もっと早く言ってくれれば2人で色々なところに頭を下げてどうにかなったかもしれないのに・・・」と、言ってくれた。
その時はじめて嫁の性格を超えた人柄のようなものを知った気がした。
確かに逆の立場であれば、私も嫁と同じ考えだ。
不幸なことは、そんな夫婦共通の正常な考えに気づかせないほど熾烈な借金地獄だったということだ。
自己破産を経験している私の借金遍歴|まとめ
最初の武富士の借金から自己破産で借金が0になるまで、7~8年がかかっています。
その間の、嫁に内緒で孤軍奮闘して返済に明け暮れていた月日を考えると、交通事故に遭ったことは私には自己破産するキッカケになったので救いでした。
嫁の実家での暮らしは窮屈でしたが、お金の心配をせずに心の底から子供を抱きかかえた喜び、負債がなくなったことによる方の荷の軽さ。
毎月返済しなくていい世の中の空気の透明感など、これまで多重債務に苦しんでいた精神的な重圧や心境が自己破産によって蘇ることができました。
というのが、一般的な自己破産体験者の(借金)遍歴だと思うのですが、私の場合はこれは第一章に過ぎないというのは、もって生まれた「だらしなさ」です。